土見稟は寝起きが悪い。
寝起きが悪いということは寝ている途中で起きる事も無いわけで、一度寝たら朝まで
目を覚まさないのは彼にとって極々当たり前のことだった。
そんな誰よりも睡眠を愛する彼が深夜に目を覚ます。
自分でも深夜に起きる事に驚き、思わず部屋を見渡してしまった位だった。
「24時間以上寝たわけじゃ無さそうだな……」
普通考える必要も無いことを確認して安堵の表情を見せる稟。
彼はのそのそとベッドから抜け出すと部屋の外へと向かう。
妙な胸騒ぎがして起きる。
嫌な予感がして目を覚ます。
悪い夢を見て意識が覚醒する。
彼はそんな大層な理由があって起きたわけではなかった。
ただ単純に体が尿意を催したから。
カッコいい理由でも何でもなく、極々平凡な理由で起きた彼はトイレへと向かった。
「うわ、まだ3時かよ……」
トイレから出て部屋に戻る途中、壁掛け時計に目をやると時計の短針は3の数字を指し、
家の中も静寂を保っていた。
稟は損した、そう感じていた。
彼にとって睡眠は一分一秒たりとも無駄にはしたくない貴重なもの。
砂金を零すかのように失うと取り戻せない大切なもの。
夜中に起きただけでうなだれるのも珍しいが、彼は力の入っていないだらしない歩き方で
愛しのベッドの元へと歩いていった。
部屋の前に着いたところで稟は2つの異常に気づいた。
1つ目は自分の部屋のドアが開いている事。
部屋を出るときにはきちんとドアを閉める癖がある稟はそんな些細な異変が気になった。
2つ目は自分の部屋の中から誰かの声がする事。
一瞬稟も幽霊かお化けの類か? と勘ぐりもしたが、聞き耳を立てる事でその予測が
外れていたことが分かった。
自分の部屋から聞こえていた声。
それは毎日聞いている声。
自分の中で一番大事な人の声。
楓の声が自分の部屋から聞こえていたのだ。
自分が寝ていたときは勿論一人だったし、部屋を出るときにも楓には会わなかった。
恐らくは自分がトイレに行ってる間にでも入ってきたんだろう。
稟は一番妥当な理由を導き出した。
しかしその理由にも疑問点があった。
1つ目は朝起きるのが早い楓がこんな深夜に起きて何故俺の部屋に居るのか。
2つ目は何故聞こえてくる楓の声は
「稟……くん……ぐすっ、くすん……稟くん……」
俺を呼ぶ声と泣き声が入り混じっているのか。
突然の出来事に思わず自分の部屋の前で立ち止まってしまったが部屋に入らないと
何も始まらない。
何より楓が自分を呼んでいる。
稟はゆっくりとドアを開けると、暗闇に包まれている部屋のベッドの前でへたり込んで
泣き続けている楓を発見した。
「楓……?」
「あ……稟……くん?」
「どうしたんだ? こんな時間に」
「稟くん……稟くん! 稟くん! 稟くん!」
楓は稟の存在を確認すると、ひたすらに彼の名前を呼び、離さんとばかりに強く、
しっかりと抱きしめるのだった。
暫しの間、楓はずっと稟を抱きしめ続けた。
稟は楓が混乱をきたしている間、彼女を落ち着かせるようにゆっくりと彼女の触り心地の
良い髪の毛を梳かし続けた。
それに楓も安心したのか、何とか平静を取り戻すと二人はベッドに腰掛け、楓は先程と
同様に稟に抱きついてくる。。
稟は抱きしめ返してやると、実に優しい声で楓に話しかけた。
「どうしたんだ? こんな夜中に……何かあったのか?」
「夢を……最近同じ夢を見るんです」
「夢か? 夢くらい見るだろ」
「はい、けどその夢の内容が……怖かったんです」
その夢を思い出してしまったのか、楓は稟の服をぎゅっと掴んできた。
声が震えながらではあったが、楓は再度言葉を紡ぎ始めた。
「稟くんが私の前から消えて居なくなっちゃうんです。私はずっと、ずっと走って
稟くんを追いかけるんですけど全然追いつけなくて。それで……稟くんは深い闇の中に
消えて……行っちゃって……」
「俺が逃げてくのか」
「逃げていく……というよりも稟くんは私の方を向いたままで、私との距離が離れていく
というか……。とにかくそんな嫌な夢を毎晩見るんです」
「毎晩……か」
「はい。けど起きる度に稟くんの部屋をそっと覗いて見ると稟くんはちゃんと寝ていて、
それに私は安心してまた寝る事ができてたんです」
「なるほど。けど今日は来てみたら俺が居なかったってわけか」
「は、はい」
悪夢が現実になる。
何よりその悪夢の内容が最愛の人との離別だというのならパニックを引き起こしても
何ら違和感は無いだろう。
楓は理由を一部始終話すと稟に掴まる力を強めてきた。
「ごめんなさい、稟くん」
「良いって。しかしタイミングが悪かったな」
「はい……」
バツが悪そうな稟と申し訳無さそうな楓。
二人の関係が恋人同士と言うものに変わってもこの位置関係は変わらないらしい。
稟は楓が少しでも楽になれるように、と楓と同じように彼女を抱きしめる。
楓も稟の気遣いが分かったらしく、そっと稟の胸元に頬を摺り寄せてきた。
「稟くん、あったかいですね」
「まぁ寝起きだしな」
「そうですね。……あ! ご、ごめんなさい。稟くんの睡眠時間を削ってしまうような
事になってしまって」
「気にすんなって。目が覚めただけなんだから。それに楓を泣かせたまま俺が寝てるのも
彼氏としては情けない限りだしな」
「は、はいぃ……」
彼氏、彼女の間柄になっても楓はまだそう言われるのが恥ずかしいらしく、顔を
赤らめてもじもじし始める位のものだった。
幾ら経っても恋人と言われると恥ずかしがる楓に対し、麻弓が痺れを切らしたことも
あった。
「あーもぅ! そう何度も何度も恥ずかしがられたらこっちが恥ずかしくなるわよ!
楓も折角土見くんと結ばれたんだから堂々としなさいって!」
「そ、そんな事を言われても……」
「人前でキスしてみせるくせに指摘すると恥ずかしがる……何? このあたしに対しての
当て付けってわけ!?」
「そ、そんな麻弓ちゃ〜ん……」
「麻弓、そろそろ楓をからかうのは止めとけって。終いには楓が気絶しちまうぞ?」
「ちぇっ。はいは〜い。楓のナイト様からのご要望じゃ止めるしかないわね」
「もぅ〜……」
そんな何時までも変わる事のない楓の反応に対しては稟も苦笑をせざるを得なかった。
嬉しい反面恥ずかしくもあった。
「それにしても何でそんな夢を見るんだ? 俺は何時も通りここに居るのに」
「わかりません。わかりませんけど……」
楓はそのまま口篭る。
理由は楓自身が良く分かっていた。
稟に許してもらえた。
稟と繋がる事が出来た。
稟に愛していると言ってもらえた。
自分の人生の中での幸運がここ最近に集中してきているのではないのかと思うくらいに
彼女は幸せを実感していた。
しかし彼女自身幸せと言うものに慣れていないのか、幸せなのが不安だった。
何時か稟は自分を置いていなくなってしまうのではないか
何時か稟に嫌われる時がくるのではないか
何時か自分が必要とされなくなってしまうのではないか
もしかしたらこれがすべて夢なのでは無いかと思う時もあった。
稟と居るときは幸せだった。
しかし稟が目の前から居なくなるだけで不安が楓を支配した。
稟と楓の付き合いは長い。
稟も彼女が言わなくても何を考えているのかは大体分かっていた。
自分が幸せになるのに不慣れな彼女はきっと慣れない環境に押しつぶされそうになって
いるのだろう。
楓には今まで以上に、今までの不幸を補って余りある位に幸せになって欲しかった。
自分の胸の中で未だに震える愛しい人を少しでも楽にしてあげようと、稟は彼女を
持ち上げると、自分の膝の上に彼女が座るような体勢になった。
「り、稟くん?」
「楓、俺はお前の事が好きだ」
「は、はい」
「お前を置いて何処かに行ったりなんかしない。お前との約束を破ったりなんかしない」
「稟くん……」
「これでも信じられないか?」
稟の言葉に対して楓は首を必死に横に振った。
「そっか。それなら良し」
「あの、稟くん。私は稟くんの隣に居て良いんですか?」
「俺は楓に居て貰わないと困る。俺は一人じゃ何も出来ないし、何より俺は楓依存症
だからな」
稟の他愛も無い冗談。愛情のこもった冗談に楓は小さく笑った。
自分は愛してもらっている。
これは夢や幻ではなくてこの手に取れる確かな物。
それが分かったのか、楓は嬉しそうだった。
「じゃあ私は稟くん依存症ですね」
「じゃあその病気に対する処方箋は?」
「稟くんがずっと傍に居てくれることです。きっと治らない不治の病ですから」
「そりゃ困ったな。俺たちは揃って不治の病気持ちか」
「はい。だからちゃんと一緒に居てくださいね」
「了解。それじゃあ今日は……」
稟は再度楓を持ち上げると、今度は自分のベッドの上へと横たわらせた。
楓はひょいっと持ち上げられた後に稟が真上に居る体勢へと変わる。
彼女はこれから何が待っているのかわかっているのか、顔を真っ赤に変化させながら
稟を見上げた。
「り、りりりりり、稟くん!?」
「今日は一緒に寝るか?」
「で、でも寝起きですから寝汗かいてますし、お風呂も入ってませんし……」
「ダ〜メ。病気が発作を起こしそうだから緊急処置をしないとな」
「そ、そんな。緊急処置って……あんっ!」
「ダメか?」
「ダメじゃ……ないです」
恥ずかしがりながらも楓は稟を受け入れた。
二人愛し合った後での彼女の寝顔は悪夢など見るはずもないと言った実にやすらいだ
寝顔であった。
プニプニ
「んぁ……」
頬を何かでつつかれる感触で稟は目を覚ました。
視線をさまよわせると、プリムラが菜箸を持ち、エプロン姿で立っているのが分かった。
どうやらプリムラはその菜箸で稟を突いて起こしていたようである。
「稟……おはよう」
「あぁ、おはようプリムラ。あれ? 楓は?」
「まだ起きてない……寝てる」
「そっか。楓にしちゃ珍しいな」
「うん……そこで寝てる」
「そこで?」
プリムラが菜箸で指した先、俺の隣を見ると幸せそうにすやすやと眠っている楓が居た。
「あ、そうか。昨日……おい、楓。起きろ〜」
「んん……あれ? 稟くん……リムちゃん……」
状況が把握できていないのか、目を擦りながら起き上がる楓。
はらりと落ちる掛け布団。
露になる楓の肌。
驚きの顔を見せる稟と、相変わらずの無表情なプリムラ。
昨日の夜は二人体を重ねて愛し合った。そのまま寝てしまったものだから二人とも
今は一糸纏わぬ姿でいるのだった。
「か、楓!?」
「楓……服着ないと寒い……」
「え? ……きゃ〜〜〜〜〜〜!!!」
「プ! プリムラ! とりあえず先に1階に降りててくれるか?」
「わかった……パン焼いておいたから……早く降りてきて」
「あ、ありがとうございます、リムちゃん」
掛け布団を必死に手繰り寄せて体を隠しつつ、楓はプリムラにお礼を言うと、プリムラは
部屋を出ていった。
ドアが閉まるのを確認してから二人は大きくため息をついた。
「あの……朝ごはんご用意できなくてすみませんでした」
「しょうがないさ。目覚ましは楓の部屋なんだしさ」
「そ、そうですけど普段は目覚ましがなる前に起きるんでよ? ですけど昨晩は……その、
稟くんが激しかったもので……」
先程以上に布団を手繰り寄せて顔を半分ほど埋もれされたまま、楓は恥ずかしそうに稟の
方を見ると、稟は恥ずかしそうに笑うしかなかった。
「す、すまん」
「いいえ、嬉しかったですから」
楓が何時もの──いや、何時も以上の微笑を見せると稟は恥ずかしさの限界を突破したのか
そっぽを向いてしまう。
「そ、それじゃあとりあえず着替えて一階に降りようか」
「はい、そうですね」
楓はひとまずパジャマを着ると部屋を出るためにドアのノブを握った。
そこで一度動きを止めたかと思うと、稟の方に振り向いて彼女の何時もの一言を口にした。
とびっきりの笑顔とともに。
「稟くん、おはようございます」