シアが泣き、麻弓が喚き、楓とネリネが二人のお世話係となる期末試験を終え、何とか
全員が補習を受けることも無く済んだ。
そのときの二人の喜びようはとんでもないものだったのは想像に難くなかった。
そしてそんな地獄の坂を乗り越えた学園の生徒みんなが待ちわびていた夏休みがやって
きた。
それから2週間。
補習が無い生徒、運動部の地獄の合宿等と言った嬉しくないものに参加をしていない
生徒にとっては天国の期間のはずが彼には違っていた。
土見稟。
平凡が非凡な彼も当初は夏休みは親衛隊連中からも開放されて心の底から願いつづけて
いた平和な毎日が来るはずと思っていた。
しかし平和の定義とは難しいものである。
周りから見れば平和どころか天国じゃないかと思えるのかもしれない。
実際、親衛隊にこの二週間の出来事をリークしたらそれだけでも報奨金が貰えそうな
程である。
多分土見稟に対する私怨の念は倍増する事だろう。
ちなみにどんなものかと言うと、こんな感じである。
「やぁ、稟ちゃん。お出かけかい?」
「えぇ、ちょっと散歩に……」
お隣さんである魔王邸。暇だから何となくと言った理由で家を出た稟がその家の前を
通りがかると庭には家の主であるバカ親その1、魔王フォーベシイが居た。
麦藁帽子を被り、首には手ぬぐいを巻き、手には草刈りの鎌を持って。
これが黒頭巾に黒マント、長尺の鎌なんか持ってた方が魔王らしいんじゃ無いかな、
なんて事を頭にジリジリと陽を焼き付けながら稟は考えていた。
まぁこの姿を見ただけじゃ100人が100人この人を魔王などとは思わないことだろう。
実際稟も知っていながら思いたくは無かった。
こんな庶民感あふれる魔界の覇者なんてのは自分の中の何かが崩れてしまう気がする
からだ。
「そうだ、今日はネリネちゃんが暇そうにしていたからねぇ、どうだろう? 私が愛情
込めて作ったパウンドケーキもあるから入っていかないかい?」
「え、でも……」
「稟ちゃんが来てくれればネリネちゃんも大喜びさ。あ、もちろん家の中は涼しいから
安心して良いよ」
そう言いながらフォーベシイは稟の手を引き、どんどん邸内へと入っていく。
この華奢と言われても仕方が無い彼の体にどれだけの力があるのか皆目検討もつかないが
抗うことすらも許さないような力で稟を引きずっていく。
「あ、二人きりになりたくなったら言っておくれよ? そんな二人の仲に割り込むほど
私はやぶさかじゃないからねぇ。まぁ部屋は防音処理してあるから外に声が響くとかは
無いから気にしなくても良いけど、やっぱり家に誰か居るのは気になったりもするだろう
からね。そんな時には喜んで神ちゃんの所にでも行ってるからさ」
「何を想像してるんですか!! 何を!!」
「何ってセッ」
「いちいち言わんで良い!! 大体あんたの大事な娘でしょうが!! 仮にそんな事に
なったとして何とも思わないんですか!?」
稟の言っている事は通常に当てはめれば至極当然の疑問である。
しかしそれはあくまで通常での話。
フォーベシイは笑顔で
「何言ってるんだい稟ちゃん。ネリネちゃんが喜んでくれて、何より孫の姿が見れるんだ。
親としてこれ以上の幸せがあるわけないじゃないか!」
さらっとこんな事を言いのける。
何度聞いたかも分からない彼の主張に稟は力を失うとずるずると引きずられながら
「そうですか……」
降伏の白旗を揚げた。
「ネリネちゃ〜ん!! 稟ちゃんが遊びに来てくれたよ〜〜!!」
「稟さま!? まさか稟さまが来て下さるだなんて……嬉しいです」
あぁ、こんな親からなんでこんな純粋な子が生まれたんだろう。
ネリネの心の底から溢れ出る喜びの表情を受け、稟は力なく彼女に笑いかけるのであった。
ちなみにこの後、稟はネリネからのたっぷりの愛情をベッドの上で受け取り、精根尽き
果てかけた様子で夕日に染まる道を歩いていたのは当然の事と言える。
後、例えばこんな感じである。
魔王邸の方に言ったらこの前の二の舞になる。
前回の反省は次回に繋げればいい。稟は自宅を一歩出たところで昨日とは逆の方へと
脚を向けていた。
「よぉ〜! 稟殿ぉぉぉぉぉ〜〜〜〜!!!」
拡声器も使っていないのにどでかくご近所へと響き渡る聞き覚えのあるずっしりとした
実に男らしい声。
こんな暑い日に聞いたらそれだけでも気温が上がってしまいそうな気にさえさせる少々
暑苦しい声の主へと稟は目を向けた。
「こんな熱いのにどっかに行くのかい!?」
何とも言えない光景。
筋肉隆々の男の横に添えられているのは満開に咲き誇る向日葵の花。夏らしくて良い
だろうとこの人が植えていたな、なんて事を稟は思い出していた。
しかしやっぱり似合わない。
何と言ったら良いのか分からないがむさ苦しい位に元気な男と向日葵はミスマッチも
良い所だ。
これが彼、神王の娘だったらば一枚の絵にしたいくらいにお似合いなのに……。
もったいない。実にもったいない。何より彼に付き合うこと自体が時間がもったい
ないと稟は思っていた。
「ちょっと散歩に……」
そう言って足早に走り去ろうとした矢先、またもや彼の手はそのがっしりとした手で
抑えられていた。
「そうか! それなら暇なんだな!? ちょうど良いところで会ったぜ。今スイカを
冷やしててよ、みんなで縁側で座って食べようかって話してた所なんだよ。どうせだから
稟殿も一緒に食ってくよな?」
「い、いや、ちょっと……」
「別に遠慮するこたぁ無いんだぜ? 将来の婿殿なんだ、自分の家と思ってくつろいで
くれって!! それにシアも稟殿が来るってききゃあ大喜びするってもんよ!!」
ガッハッハと稟の背中を叩きながらユーストマは邸内へと入っていく。
あぁ、これってデジャビュって言うのかなぁ、何て事を稟は諦めの表情を浮かべながら
引きずられていった。
「お、そうだ。うちは和風だから音が洩れそうとか思うかもしれないけどよ、ちゃ〜んと
各部屋には防音用の障壁は張ってあるから問題ないから安心してくれよな!! けどそれ
でも気になるときは遠慮せずに言ってくれ。そん時はまー坊の所にでも行って時間を潰す
からよ! 二人っきりになって好きなだけヤってくれ!!」
「好きなだけって何ですか!? それにヤっての発音が明らかに変でしたよ! 何考えてん
ですか!?」
「何って決まってるじゃねぇか、セッ」
「だ〜〜〜〜!!! いちいち言うな! ったく、自分の大事な娘に手を出されて嫌じゃ
無いんですか!?」
これもデジャビュと言うのだろうか、昨日稟がフォーベシイに言った台詞と殆ど同じ
内容を彼はユーストマへと投げかけた。その返答は当然
「何でだ? シアが望んでるんだから良いことじゃねぇか。それによ、早く孫の姿が
見れるんだったらこっちとしては願ったり叶ったりってもんよぉ!!」
同じような内容だった。
あぁ、この二人は見事なまでに義兄弟なんだな。
稟はそんな変なところを納得してしまった。
力なく引きずられるまま稟は玄関へと入れられた。
「シアーーー!! 稟殿が遊びにきてくれたぞーーーーーーー!!!!」
「稟くん!? うわぁ!! ほんとに稟くんだぁ〜〜〜〜!!! え、何? 何?
どうしたの? 嬉しいっす〜〜〜〜!!!」
シア、その引きずってる折り畳みの椅子は何のためのものなんだい?
そんな事を思いながら稟は彼女の大輪の笑顔に対してまたもや力なく笑顔で返すのだった。
大方分かっていることかもしれないが一応教えておこう。
稟は昨日同様にシアからの熱い愛情をベッドの上で体いっぱいに受け取り、ステータス
文字がこの夕日で染まった帰り道そっくりなオレンジ色になってしまうほどに精根尽き
果ててその短いお出かけの距離を帰宅するのであった。
こんな事が1回だけなら神経が図太い稟ならまだ平気だったかもしれない。
しかし稟自身懲りないのか、それとも意地になっているのか分からないが何度も外に
出かけようとしては魔王、神王のどちらかにつかまってはその娘達に愛情を分け与え、
愛情を受け取る毎日を送っていた。
家ではプリムラと楓が優しく出迎えてくれた。
しかし夜は夜で楓か、はたまたプリムラが稟の部屋へとやってきて彼を求めてくる事が
少なくなかった。
最近では楓とプリムラの中に対抗心が沸いているのかプリムラが猫耳メイド姿で来たと
思ったら次の日には楓がオーソドックスなブリティッシュメイド服姿で来たりと、終いには
稟がゆっくり休めるのは本当に睡眠時間だけへとなりはじめていた。
彼にとってはこれは学校へ行くこと以上の過酷なものへと変わり始めていた。
だからこそ彼はこの夏休みが嫌なものへと変わりつつあった。
そんな現状を打破しようと、と言うよりは少なくとも昼間くらいは自由な時間を勝ち
取ろうと稟はある作戦を思いついた。
いや、これは作戦と言うにはあまりに稚拙すぎるかもしれないが彼が必死になって考えた
苦肉の策だった。
昨日の晩、ローテーション通りに来た楓の相手をする稟は半ばやけくそ気味に楓に
たっぷりの愛情を注ぎ込み、いつもより早く楓を満足させてやった。
あまりの事に楓が腰にきて立てなくなってしまった事に稟は少し反省しながら彼女を
部屋へと返してやり、そそくさと床についた。
そして早朝。
まだ起きている人が居るとすれば朝刊配達を終えた配達員か、ラジオ体操前に遊ぼうと
友達と約束をして普段起きない時間に起きて元気に走り回る幾人かの子供位のものだ。
そんなスズメも寝起きで目をこするような時間に寝ることが大好きなはずの稟は起きた。
いつも早起きの楓も昨晩のこともあるし、なにより夏休みは遅めに起きていると言って
いたからこんな時間には起きてこないだろう。
物音を極力立てないように心がけながら稟は着替え、そっと階段を下りていく。
何も動き気配のしない、夜中のような静けさと昼間のような明るさの同居する奇妙な
空間に違和感を覚えながら稟は静かにドアを開け、家を出た。
「朝はこんなに涼しいもんなんだなぁ……」
日ごろの疲れからか、彼が起きるのは大抵テレビでは朝のワイドショーが終わった頃の
時間。生活リズムがきちんとしている楓とプリムラは朝食も済ませてしまっているのが
何時もの事だった。
そんな時間だと外は既に灼熱の大地と化し、太陽からの照り付ける光とアスファルト
からの輻射熱のダブル攻撃に人間は思考回路を止めてしまいたくなる。
「そういえば母さんが昔、『宿題は午前中の涼しいうちにやっちゃいなさい』なんて言って
たっけか。あれって本当なんだな」
厳しすぎるくらいの日の光から開放されて涼しくなる夜からまだ完全に明けきっていない
今の時間は一番涼しいのかもしれない。
その清清しさと、何より両隣の前をとおるのにオドオドしなくて良いのが相まって稟は
実に気持ちのいい気分に浸っていた。
何時もよりも軽快な足取りで歩く。
誰かとすれ違うことも無く、車の姿も見当たらない。
一歩間違えれば自分が現実とは同じで少し違う、自分しか居ない仮想空間にでも入り
込んでしまったのではないかと思えるくらいの静けさが稟を包み込む。
川べりを歩いていると、健康の為かはたまたトレーニングの為か、時折スポーツウェアに
身を包んだ人とすれ違った。
そんな人たちは決まって爽やかに稟に向かって挨拶をしてくれた。ジョギングをする人
達にとってのマナーなのだろうか、もしかしたら登山する人たちのマナーと同じで挨拶を
するのが当然なのかもしれない。そんな事を考えながら稟も彼らに挨拶を返しつつ、朝日に
輝く川を眺めて歩いていた。
「あれっ? もしかして稟ちゃん!?」
後ろからした聞き覚えのある声に振り返る。
「やっぱり稟ちゃんだ。こんな時間にどうしたの? もしかして寝すぎてこんな時間に
起きちゃったとか? それともリムちゃんと一緒にラジオ体操にでも行くつもりだったの
かなぁ〜?」
「亜沙先輩……そこまでして俺を早起きすると思いたくないですか?」
実に彼女らしい挨拶だった。
亜沙お気に入りらしい半そでのパーカーとハーフパンツ。肩にはスポーツタオルをかけて
爽やかに登場した彼女の額にはうっすらと汗がにじんでいる。
運動が好きな彼女とよもやこんなところで会うとは稟も思っていなかった。
「あはは、けど稟ちゃんは何時もねぼすけさんだからねぇ。しかも夏休みのこんな朝早くに
何も用事が無いのに起きてるなんて流石にボクも想像してなかったよ」
「確かに何時もならこんな時間起きてるわけ無いですけどね」
「あら、もしかして何か重大な理由があったりするわけぇ!?」
タオルで汗を拭きながら亜沙は眼をキラキラと輝かせて興味心身に聞いてくる。似たもの
同士というか何と言うか、この辺りの雰囲気はカレハと実に良く似ている。
稟は小さくため息を一度吐くと一言だけ
「うちの両隣の事でね……」
と、事情を知るものならそれだけですべてが理解できる言葉を口にした。
亜沙もそれだけで分かったらしく、稟の言葉に苦笑いで返してきた。
「あ、あはははは……。稟ちゃんも大変だねぇ」
「えぇ、本当に。心身ともに夏休みに入ってからズタボロですよ……」
その稟の本音である悲痛な叫びに対し、亜沙はしばし何か考えると手を叩いて何かを
閃いた旨の反応を見せた。
「そうだ! こんな時間に起きたって事はどうせあんまり寝てないんでしょ? だったら
うちにきなよ。少しは休めると思うよ?」
稟にとっては願っても無い提案だった。
早く寝たからといっても睡眠時間は決して多くは無い。むしろ彼の平均睡眠時間をと
疲労度を考えると足りない位である。
しかしここではいはいと言えないのが稟なのだった。
「けど朝早くだし迷惑じゃ……」
「何言ってるの! 別に何度も来てるんだから何も問題ないでしょ? それに稟ちゃんなら
来ても全然問題ないし。大丈夫大丈夫! それとも何? この愛しの亜沙さんからの
ご好意を稟ちゃんは無下にする気? あー、稟ちゃんってば酷いんだぁ〜」
オーバーリアクションで落胆の表情を見せる亜沙。
稟も彼女の行動が大げさなのはわかっているが、彼女が言ってるのは嘘と言うわけでも
無い。
それより何より女性にこう言われてしまうと断れないのがこれまた稟なのだ。
「分かりました……。じゃあお言葉に甘えて」
「うんうん、わかればよろしい♪」
稟の返事に気を良くしたのか、先ほどの稟のように軽快な足取りで亜沙は足先を自宅へと
向けた。
稟はその彼女の背中を見つつ、一抹の不安を頭の片隅に浮かばせていた。
「お母さんまだ寝てると思うから静かに入ってね」
小さな声で稟にそう忠告してから亜沙はドアノブを回した。
随分と見慣れた他人の家の中。
何時もなら元気ながらもほんわかとした亜麻さんの声がすぐするのだが今日はシンと
したままである。
恐らくは亜沙が言う通りに亜麻はまだ夢の中に居るのだろう。
足音をなるべく殺しながら稟は亜沙の部屋へと連れられていった。
「ごめんね、稟ちゃんが来るって分かってたら片付けてたんだけど……」
部屋に入るなり、脱ぎ捨ててあったパジャマを急いでかき集めながら亜沙はそう言った。
しかし別段ちらかっているようには思えない。机の上にやりかけの宿題があるのが意外と
生真面目な亜沙らしかったりする。
「いえいえ、こっちこそいきなりお邪魔することになったんだから気にしなくて良いですよ」
稟が所在なさげにしているのに亜沙が気づいたのか、彼女はベッドの掛け布団を剥くと
彼に座る場所を指示するようにポンポンとベッドを叩いた。
「ほら、寝るんでしょ?」
「え゙!? こ、ここで寝るんですか?」
「だって客間に布団敷く準備とかしたらお母さん起きてきちゃいそうだし、ここの方が
手っ取り早いでしょ?」
「た、確かにそうですけど……」
「分かったら早く寝る!!」
「うわっ!? ちょっ!?」
業を煮やしたのか亜沙は稟の手を引っ張ると彼をベッドへと寝転がした。
稟はつくづく人に引っ張られるのが好きな人間らしい。
「どう? まだボクのぬくもりが残ってるかな?」
「そ、そうですね……」
それよりも稟は枕から漂ってくる彼女のシャンプーの甘い香りが気になって仕方なかった。
更に目の前にある彼女の顔も気になって仕方がなかった。ちょうど稟の顔を覗き込むような
体勢でベッドに肘をついて嬉しそうな表情を見せてくる亜沙は年上とは思わせない可愛さが
あった。
「じゃあ稟ちゃん、おやすみのちゅーは?」
「お、おやすみの!?」
驚きながらも稟の視線はしっかりと彼女の唇へと移っていた。
口紅などはつけていないが綺麗なピンク色を誇り、触ったら柔らかそうな質感を見せる
その唇。
その唇を割って出てくる甘い誘いの言葉は正に魔性の言葉。稟はテンプテーションにでも
かかったように、その言葉に吸い寄せられるように唇を近づけた。
「んっ……」
軽い快楽に似たものが唇から脳へと伝わる。
このままだと何時ものように欲望がしっかりと頭を出してきそうになっているのが
分かった稟は深い口付けはせず、短い時間で唇を離した。
「えへ……稟ちゃんとのキスは久しぶりだね」
「夏休みに入ってから会う機会が無かったですからね」
「早起きは三文の得って言うのはこの事かもね」
「確かに間違ってないかもしれないです」
嬉しそうに微笑む彼女を見ながら眠りに誘われるままに目を閉じる。これが幸せじゃ
なければ何が幸せなのだろうか。
久しぶりの安眠に稟は心の中で安堵のため息をついてから眠りにつくのだった。